クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ(Queens of the Stone Age、略称はQOTSA)

クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ(Queens of the Stone Age、略称はQOTSA)は、アメリカ合衆国カルフォルニア州パームデザート出身のハードロックバンド。1997年にカイアスのギタリストだったジョシュ・オムを中心に結成された。

概要

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

ストーナーロックの雄だったカイアスの解散後、ギタリストのジョシュ・オムはスクリーミング・トゥリーズのサポートメンバーを務めたる傍らで新バンドの結成を模索。1996年に「ガンマ・レイ」名義で活動を開始するが、同名のジャーマン・メタルのバンドが存在することが判明。改名を余儀なくされ、音楽プロデューサーでジョシュ・オムの旧友であるクリス・ゴスの発案により、「石器時代のおかま」を意味する「クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ」と名乗ることになった。

1997年にセルフタイトルのデビューアルバムを発表して以来、現在まで5枚のスタジオ・アルバムをリリース。2ndアルバム「R指定」が好評を得ると、続く3rdアルバム「ソングス・フォー・ザ・デフ」が英国でプラチナムに認定されるなど商業的にも成功を収めた。

音楽性

音楽的にはストーナーロックに分類されることもあるが、ジョシュ・オムは麻薬との強い結びつきを想起させるこの呼び方を快く思っていない。彼自身は、機械的に繰り返されるリフにちなみ、自らのバンドの音楽性を「ロボット・ロック」と呼んでいる。

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フィーダー(Feeder)
フィーダー(Feeder)
フィーダー(Feeder)はイギリスのロックバンド。1994年ニューポートにて結成。

3人の出会いと結成(1992年-1996年)
南ウェールズ・ニューポート出身のグラント・ニコラスとジョン・ヘンリー・リーは20歳の時に出会う。2人は"Temper Temper"というバンドを結成し、その後 "Rain Dancer"と名前を変えて、ウェールズ人のメンバーと共に活動していた。その後のフィーダーの源流ともいえるバンドだったが、うまくいかずに挫折してしまう。その後、グラントはロンドンで働きながら新たな音楽性を模索し、ジョンもグラントを追いかけるようにロンドンへ出てくる。
そうした中、岐阜県穂積町出身の日本人で、中日新聞のロンドン支局で働く傍らグラフィックデザインを学んでいたタカ・ヒロセが、1994年に雑誌"Loot"に出したバンドメンバー募集の告知にグラントとジョンが反応したことで、新たなバンドである"Real"を結成するが、その名前をグラントが気に入らなかったことから"Feeder"(グラントが飼っていた金魚の名前から取ったという)と改称した。

結成直後から精力的にライブ活動を行い、同年にはイギリスの新興インディーズレーベル、Echo Recordsと契約する。1995年9月には最初のシングルとして、2曲から構成される自主制作EP『トゥー・カラーズ(Two Colours)』をリリースする。ライブ会場での手売りのみで、現在では非常にレアなアイテムとなっている。
デモテープも積極的に製作し、翌年の1996年6月には、6曲から構成されるミニアルバム『スイム(Swim)』がリリースされ、イギリスで本格的にデビューする。

『ポリシーン』(1997年-1998年)
1997年5月、初のフルアルバム『ポリシーン(Polythene)』がリリースされ、日本でもデビューする。グランジの影響を強く受けたヘヴィなサウンドを特徴としていたため、UKの音楽メディアには「スマッシング・パンプキンズに対するイギリスからの回答」と評されることが多かった。

同年10月にUKでリリースされたシングル「ハイ(High)」はスマッシュヒットとなり、『ポリシーン』に追加収録されることとなった。フィーダーの代表曲のひとつで、日本でもミニアルバムとしてリリースされている。この曲が収録された『ポリシーン』は、アメリカでもエレクトラ・レコードからリリースされている。1998年はほぼUK・USを周るツアーが中心となったが、このツアーはかなり過酷なものだったという。

『イエスタディ・ウェント・トゥー・スーン』(1999年-2000年)
1999年7月、前述したツアーの合間にレコーディングが行なわれ、2ndアルバム『イエスタディ・ウェント・トゥー・スーン(Yesterday Went Too Soon)』がリリースされる。シングルカット曲の中でも、ツアーでの経験からインスパイアされた曲だという「インソムニア(Insomnia)」と「Yesterday Went Too Soon」は、共にUKチャートで「High」を上回るヒット曲となり、BBCの番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」にも出演した。
そして、同年に開催されたフジ・ロック・フェスティバルに初出演し、これが初来日となった。それ以前からUKでライブバンドとしての地位を固めていたこともあって大成功を収め、タカにとっては凱旋帰国と言うべきものであった。2000年1月には初の単独来日公演が行なわれている。

『エコー・パーク』(2001年)
2001年4月にリリースされた3rdアルバム『エコー・パーク(Echo Park)』は、プロデューサーにピクシーズ、フー・ファイターズなどを手掛けたギル・ノートンを起用。先行シングル「バック・ロジャーズ(Buck Rogers)」「セヴン・デイズ・イン・ザ・サン(Seven Days In The Sun)」が立て続けにヒットし、アルバムも初登場5位を記録している。特に"Buck Rogers" "Seven Days In The Sun"の2曲と、「ジャスト・ア・デイ(Just A Day)」は、プレイステーション2のゲーム「グランツーリスモ3 A-spec」に使用されたことで爆発的ヒットとなる。"Just A Day"はシングルのB面曲として既にリリースされていたものの、あまりの反響の大きさからA面曲としてリリースされた。

11月には『エコー・パーク』のヒットにより、デビュー当初からフィーダーを取り上げていた雑誌「ケラング!」が主催する"2001 Kerrang! awards"で"Best British Live Act"を受賞した。

ジョンの死と『コンフォート・イン・サウンド』(2002年-2004年)
2002年1月、ジョンがマイアミの自宅で自殺する。グラントは「メロディよりもジョンの不在が寂しい」と語ったものの、バンド活動を継続することを表明。この決断にはジョンの家族からの説得もあったといわれる。

ジョンの自殺という大きな悲しみの中で製作され、10月にリリースされた4thアルバム「コンフォート・イン・サウンド(Comfort in Sound)」は、UKでは50万枚を売り上げ、フィーダー最高のヒット作となった。このアルバムからの楽曲「ファインド・ザ・カラー(Find The Colour)」が、2003年に日産・エルグランドのCM曲として使用され、日産自動車のCM曲を集めたコンピレーションアルバム「SHIFT-NISSAN CM TRACKS-」にも収録された。
この年には『コンフォート・イン・サウンド』のヒットが契機となり、"2003 Kerrang! awards"で"Best British Band"を受賞している。 また同年にはUKと日本でツアーを行い、2004年はほぼ新作のレコーディングに集中した。

『プッシング・ザ・センシズ』・『ザ・シングルズ』(2005年-2007年)
2005年2月、5thアルバム『プッシング・ザ・センシズ(Pushing The Senses)』をリリースする。このアルバムから、ジョン死去後にサポートのドラマーとして協力していたマーク・リチャードソンが正式メンバーとなった。 同年には3度目となるフジ・ロック・フェスティバルへ出演し、タカがNHKの番組「トップランナー」に出演した。

2006年5月にはこれまでを総括するとともに、新曲3曲を加えたベストアルバム『ザ・シングルズ(The Singles)』がリリースされ、2007年7月には、シングルB面曲を集めた裏ベストアルバムともいえる『ピクチャー・オブ・パーフェクト・ユース(Picture of Perfect Youth)』がリリースされた。

『サイレント・クライ』(2008年)
2008年3月、新曲「ミス・ユー(Miss You)」がフィーダー公式サイトで配信され、3ヵ月後の6月に、6thアルバムとなる『サイレント・クライ(Silent Cry)』がリリースされる。前作までプロデューサーを務めていたギル・ノートンの手を離れ、ほぼセルフプロデュースで製作された。7月には4度目となるフジ・ロック・フェスティバルに出演し、2009年2月には5度目となる来日公演が行なわれた。

マークの脱退と『レネゲイズ』(2009年〜現在)
来日公演後の5月6日、公式サイトを通じて、マークが脱退することが発表される。マークの脱退後には、後任ドラマーであるカール・ブラジルと共に UKでのツアーを続行した。 秋には結成時からの所属レーベルだったEcho Recordsの倒産により、自主レーベルであるBig Teeth Musicを立ち上げている。
2009年の暮れには、サイドプロジェクト"Renegades"名義で新曲を発表し、2010年に入ってからは小規模のライブツアーを積極的に行ないながら、EPを2枚リリースした。
そして、6月には『レネゲイズ(Renegedes)』のタイトルで7枚目のアルバムがリリースされる。さらに2011年には『レネゲイズ』に続くアルバムがリリースされる予定であることも、バンドの公式発表で明らかにされている。

2010年9月には6度目となる来日公演を行なった。代官山UNITでの最終公演はUstreamを使って生中継され、アンコールではLUNA SEAのメンバー・INORANが登場し、メンバーと共にニルヴァーナの曲「ブリード」をカバーしている。


グラント・ニコラス
 (Grant Nicholas 1967-) ボーカル、ギター

タカ・ヒロセ
 (広瀬 隆/Taka Hirose 1967-) ベース

カール・ブラジル
 (Karl Brazil) ドラム

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マヌ・チャオ(José-Manuel Thomas Arthur "Manu" Chao )
マヌ・チャオ(José-Manuel Thomas Arthur Manu Chao )
マヌ・チャオ(Jose'-Manuel Thomas Arthur "Manu" Chao )はパリ生まれのスペイン系フランス人の歌手。出身国はスペインだが、チャオはバスク人とガリシア人の血を引いている。政治活動家としての側面も持つ。

スペイン語にフランス語、英語を主とした歌を歌っており、時折多言語で歌うこともある。

初期はホット・パンツのメンバーとして活動、いくつかの音楽のスタイルやフランス語以外のスペイン語や英語など数種の言語を用いており、このスタイルは現在も用いている。1987年にはマノ・ネグラを結成、1990年代半ばに分裂してからはソロ活動をしている。


幼少時代
マヌ・チャオの母はスペインの自治州バスク国ビスカヤ県出身で、父親のラモンはビスカヤ県出身の作家でジャーナリストである。マヌの祖父の死後、彼等はフランシスコ・フランコの独裁政治から逃れる為、フランスのパリへと移住した。 やがて、マヌが生まれるとパリから離れた郊外へと移り、マヌは幼少時代をブローニュ=ビヤンクールとセーヴルで過ごした。様々なアーティストや父親の知り合いから知的な感性を養った。

初期〜マノ・ネグラ
ライヴでパフォーマンスするチャオ。

チャオはUKロック・シーンに強く影響を受けており、とりわけザ・クラッシュやドクター・フィールグッドが挙げられている。1980年代半ばにチャオは他のミュージシャンとスパニッシュ/イングリッシュのロカビリーグループ、ホット・パンツを結成。1984年にデモ曲、"Mala Vida"を発表。地元では大いに評価され、注目されることになった。

1987年にチャオの兄弟と従兄弟とでマノ・ネグラを結成、小さなレーベルよりスタートする。ホット・パンツのシングル"Mala Vida"をリワークしてリリースすると、フランスでヒットする。間も無く、ヴァージン・レコードに移り、ファースト・アルバムPatchankaをリリースした。英語圏の市場では受けなかったが、オランダやイタリア、ドイツ等、一部の非英語圏では人気があった。

ソロ期(ラディオ・ベンバ)
ブルックリン、プロスペクト公園(2007年6月)。

マドリッドを離れた後、マヌはラディオ・ベンバ・サウンド・システムをマノ・ネグラ出身の他のバンドメンバーと結成。メキシコのティファナ・ノー!やブラジルのスカンク、アルゼンチンのトドス・トゥス・ムエルトスといった、様々な国々のミュージシャンをフィーチャーしている。


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ザ・キルズ (The kills)
ザ・キルズ (The kills)
ザ・キルズ (The kills) はジェイミー・ヒンスとアリソン・モシャートからなるデュオ/バンド。


アリソン・モシャート

フロリダのパンクバンド、ディスカウント(Discount)で活動。

ジェイミー・ヒンス
イギリスのバンド、スカーフォ(Scarfo)とブライスパワー(Blyth Power)で活動。 2007年から交際をしているスーパーモデルのケイト・モスの恋人として何度も婚約のニュースが流れ、そのたびメディアで大きく取り上げられ話題を呼んだ。

「ザ・キルズ」
アリソンがディスカウントとしてイギリス公演中、泊まったホテルの部屋の上の部屋が偶然にもジェイミーの部屋だった。ジェイミーの部屋から聞こえる音楽に興味を持ったアリソンがジェイミーの部屋を訪ねたことで、二人の交流が始まる。

二人は意気投合し、アリソンがアメリカへ帰国後も大西洋をはさんで交流を続ける。ディスカウント解散後、アリソンが渡英。

アリソン、「ヴィヴィ」に改名。ジェイミー、「ホテル」に改名。

2001年、デモテープ発表。

ドミノ・レコーズから『Black Rooster EP』でデビュー。

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 ジェイミー・ヒンス "ホテル" 
(Jamie Hince "Hotel") イギリス人男性。主にギター。ボーカルも担当。

アリソン・モシャート "ヴィヴィ"
 (Alison Mosshart "VV") アメリカ人女性。主にボーカル。ギターも担当。


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フェイセズ (Faces)
Faces

フェイセズ (Faces) は、1970年代のイギリスのロックバンド。

彼らのヒット曲としては「ステイ・ウィズ・ミー」「ユーアー・ソー・ルード」「リアル・グッド・タイム」「いとしのシンディ」「デブリ」「玉突きリチャード」「リッチモンド」等が挙げられる。

スティーヴ・マリオットがハンブル・パイを結成するためスモール・フェイセスから脱退し、残されたロニー・レーン、イアン・マクレガン、ケニー・ジョーンズの三人にジェフ・ベック・グループからロッド・スチュワート、ロン・ウッドが加わり、フェイセズが結成された。

ロッド・スチュワートのソロとしての活動がグループよりも成功するようになると、ロッド・スチュワート・アンド・フェイセズとしてバンドはロッドのバックバンド的存在となっていく。そのことに幻滅を感じたロニー・レーンは1973年にバンドを脱退し、彼の後任にはフリーのベーシスト、山内テツが加入した。フェイセズの最終アルバムは『ウー・ラ・ラ』であったが、ロッドは音楽誌に同作を非難したコメントを発表し、他のメンバーはそれに憤慨した。ライブアルバム『ロッド・スチュワート & フェイセズ / ライヴ』はその録音の悪さから評論家たちに酷評された。1975年にはロンがストーンズと活動を始め、スチュワートと他のメンバーの相違が明確になった。結果としてバンドは解散した。

フェイセズ解散後メンバーは様々な経歴を積む。ウッドはローリング・ストーンズにサポートメンバーとして参加した。レーンはスリム・チャンスを結成した後ソロとして活動し、その後多発性硬化症に罹り1997年に肺炎により死去する。ジョーンズはキース・ムーン死去後のザ・フーに加入する。マクレガンも同様にフーへの加入がピート・タウンゼントによって考えられていたが、当時ローリング・ストーンズのツアーに参加していた。彼はキース・ムーンの前妻と結婚し、アメリカに移りバンプ・バンドを結成した。そしてセッション・ミュージシャンとして成功する。スチュワートはソロ・シンガーとして大きく成功することとなった。

ザ・フーやローリング・ストーンズのような同時代のバンドと比較すると、フェイセズの成功は若干地味目であるが、彼らはパンク・ロックの誕生に重大な役割を果たしたと言える。彼らの精力的で、そしてしばしばアルコールの多く入ったライブ・パフォーマンスおよびスタジオ・アルバムはザ・ダムドやニューヨーク・ドールズ、そしてセックス・ピストルズといったバンドの結成に大きな影響を与えた。パンク・ムーブメントの終了に続いて、フェイセズの影響はレプレイスメンツからブラック・クロウズ、最近ではパール・ジャム、シャーラタンズ、ホワイトアウト、ステレオフォニックスといったロック・リバイバリストたちに影響を与えている。
再結成 [編集]

2008年6月11日、ロッド・スチュワートはフェイセズの旧メンバーが再結成について話し合ったことを発表した。その内容はレコーディングを行い、少なくとも1、2回のコンサートを行うというものであった[1]。11月11日にロッド・スチュワート、ロン・ウッド、イアン・マクレガン、ケニー・ジョーンズが「まさしく、彼らが歌を思い出すことができるかどうかチェックする」ためのリハーサルを行った[2]。バンドの公式再結成ウェブサイトは同月上旬に始められた[3]。しかしながら、2009年1月23日にロッド・スチュワートのスポークスマンが2009年のフェイセズ再結成ツアーに関する計画を否定した[4]。

2009年9月24日、ロッド・スチュワートを除いたフェイセズのメンバーは、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで演奏権協会の慈善基金のためのチャリティ・コンサートを行うことを発表した。ロン・ウッドは「これは俺たちにとって特別になるだろう。そのような素晴らしくて評判の高いイベントで再結成のステージが行えるなんて。」「ロニー・レーンと一緒にできないのは悲しいことだが、彼の精神は共に側にいて、神の加護があるだろう。」と語った。レーンの未亡人、ケイティはチャリティの一部を受け取ることになっている[5]。再結成ステージは10月25日に行われた。ロン・ウッド、ケニー・ジョーンズ、イアン・マクレガンが、シンプリー・レッドのミック・ハックネルを始めとする、ロッドの代わりの様々なヴォーカリスト達と演奏を行った。レーンの代わりのベーシストはビル・ワイマンが務めた[6]。

2010年5月25日、フェイセズは公式にミック・ハックネルをヴォーカリスト、元セックス・ピストルズのグレン・マトロックをベーシストとして再結成すると発表を行った[7]。バンドは2010年のフェスティバルで演奏を行い、2011年にはツアーを行うとも発表した[8]。

2010年6月23日、日本のみでオリジナルアルバム4タイトルと、ベストアルバム1タイトルがLPレコードを再現した紙ジャケット仕様、最新リマスターによるSHM-CDで再発売された。

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エイジアン・ダブ・ファウンデイション(Asian Dub Foundation)
Asian Dub Foundation
エイジアン・ダブ・ファウンデイション(Asian Dub Foundation)は、イギリス出身のエレクトロニカ/ダンス系音楽グループである。在英のインド・バングラデシュ系のメンバーによって構成されている。略称は「ADF」。

エスニックなアジア音楽を取り入れたブレイクビーツに乗せて、辛らつな社会風刺や政治批判のメッセージを発信するスタイルを持つ。ダブを基調としつつ、バングラビートやジャングル、レゲエにドラムンベース、さらにパンク・ロックまで幅広い音楽性をクロスオーバーさせた「無国籍」なサウンドは、しばしば『ミクスチャー・ダブ』などという言葉で語られることになる。幾度かのメンバー交代を繰り返しながら、目立った停滞期もなくコンスタントに活動しており、また、フジロック・フェスティバルへたびたび参加する常連として日本での人気は高い。

ロンドンを基盤とする“コミュニティ・ミュージック”という民間団体(ストリートの若者に音楽の実践的な技術を教える民間教育機関)に所属し、音楽教師を務めていたベーシストのドクター・ダスを中心に、在英インド/バングラデシュ系コミュニティに育った、パンディットG、ディーダー、サンJ、チャンドラソニックにより1993年にグループを結成。人種差別反対運動のイベントなどでライブを行い、活動を始めた。

1995年、デビュー・アルバム『ファクツ・アンド・フィクションズ』をリリース。ブリット・ポップブームに沸く本国イギリスではブームにそぐわない音楽として低い評価しか得られなかったものの、フランスをはじめとするヨーロッパ各地では好意的に受け入れられた。

イギリスを離れ、そのフランスのレーベルからセカンド・アルバム『R.A.F.I.』が1997年にリリースされた。同年、ロンドンのレコード会社と契約し、「R.A.F.I.」に再録音と新曲を加えた形の新装版セカンドアルバム『RAFIリヴェンジ』を発売。その後、プライマル・スクリームのツアーでフロントアクトに抜擢され、プライマルのボギー・ギレスビーをして「ADFはイギリスで一番のライブ・バンドだ!」と絶賛され、一躍注目の存在となる。

翌年のフジロック・フェスティバルへの参加で初来日を果たし、その直後にはビースティ・ボーイズのツアーにも随行するなど、精力的に活動しながら徐々に人気を集めていった。

そして1999年、サード・アルバム『コミュニティ・ミュージック』を発表。イギリスの社会を激しく風刺したシングル「リアル・グレイト・ブリテン」がスマッシュ・ヒットを記録し、アルバムは自己最高の全英20位にチャート・イン。各方面から絶賛された本作によってその人気を確立する。前後してドラマーにロッキー・シンとドール(伝統的パンジャビ楽器)奏者のプリトパル・ラジプットが加入。

結成時からバンドの顔的存在だったディーダーが充電と社会活動専念のために脱退を表明した2001年、ADFは二人のMC(アクターベイターとスペックス)を加えて編成をツインボーカルに変更。その年のフジロック・フェスティバルに出演すると早速4枚目のアルバムのレコーディングを開始。

2003年、ヨーロッパ社会の暗部、9.11以降の切迫した世界情勢などがテーマとなった『エネミー・オブ・ジ・エネミー』を発表。この作品は、ヒットシングルの「フォートレス・ヨーロッパ」に代表されるように陰鬱重厚で苛烈なハードコア・レイブともいえるこれまでにない攻撃的な仕上がりとなり、バンド最大のセールスを記録した。また、アルバムと同名タイトルの「エネミー・オブ・ジ・エネミー」にはレディオヘッドのギタリストであるエド・オブライエンがゲスト参加している。その関係もあり、同年のレディオヘッドのヨーロッパ・ツアーにおいて彼らのサポートを務める。

2004年、アクターベイターとロッキー・シンがバンドを離脱し、前作からゲスト参加していたゲットー・プリーストが正式加入、またロード・キモも加入し、ボーカル編成は3MC体制へと移行する。(オン・ユーのボーカリストであるプリーストを加えたことでボーカルに柔軟性と幅が出るようになったといわれる。)

デビューから10年の節目迎えた2005年、よりヒップホップに接近しエレクトロニックな方向性を選択した5作目『タンク』をリリース。 ストイックなイメージが強かった前作に比べて、ある意味バンド史上もっとも「ポップ」な作品となった。同年、恒例となったフジロック・フェスティバルへ出演。そして、バンド結成の中心人物であるドクター・ダスが“コミュニティ・ミュージック”の運営・教育活動に専念するという理由から勇退を発表し、後任のベーシストには、新バンドリーダーとなったチャンドラソニックの実弟であるマーティンが加入した。

2007年、これまでの歩みを総括したベスト盤『タイム・フリ−ズ 1995 / 2007』を発売。その夏にスペックスとロード・キモの2人のMCの脱退が明かされたが、替わりにアクターベイターの復帰と新ヴォーカリストとしてアル・ラムジェンのメンバー入りが発表された。ちなみに、このアルバムに収録された新曲には脱退したかつてのフロントマン、ディーダーが参加している。そのため彼のメンバー復帰も噂されたが、今のところ正式なアナウンスはなされておらず、ディーダーは翌2008年にソロアルバムを発表している。

2008年春、通算6枚目のオリジナルアルバム『パンカラ』を日本大幅先行発売にて発表。パンクとバングラを掛け合わせた造語のアルバムタイトル通りこれまでで最もロック色/パンク色が強い仕上がりで、生演奏に重点をおいたギターサウンドや民族楽器によるエキゾチックなアレンジが全面に出つつ、ストゥージズの代表曲である「No Fun」のカバーをイギー・ポップ本人のゲスト参加によって実現させるなど「歌」要素の比重も増しており、これまで以上にハイテンションで多彩な顔を持つダンスアルバムとなった。アルバムリリース前にゲットー・プリーストがバンドを離れ、ソロアーティストとしての活動に再び専念することが明らかになった。

同年、このアルバム・リリースにともなう3年ぶりの来日公演では、ザ・ブルー・ハーブをサポートに起用して行われ、そして恒例のフジロックへの出場も果たした。

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チャンドラソニック
Steve Chandra Savale (aka Chandrasonic)  - ギター…バンドリーダー

サンJ
Sanjay Tailor - プログラミング

バンディットG
John Pandit (aka Pandit G) - ターンテーブル

プリトパル・ラジプット
Prithpal Rajput (aka Cyber) - ドール、ドラム

アクターベイター
Aktarv8r - ボーカル、MC(2004-2007年は一時離脱)

アル ラムジェン
Al Rumjen - ボーカル、MC

マーティン
Martin Savale(aka Babu Stormz) - ベース

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イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)

イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)は、1978年に結成された日本の音楽グループ。YMO(ワイ・エム・オー)と略称される。テクノポップと呼ばれるジャンルを代表するグループである。

概要

Yellow Magic Orchestra (イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が70年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)のどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱したのが「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。

1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。

当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツのクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は、日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。そのため、YMO結成、そしてクラフトワークの「人間解体」発売、また同じくシンセサイザーを多用したディーヴォの「頽廃的美学論」の発売がなされた1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する[要出典]。また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)はトランス・テクノ、「RIOT IN LAGOS」(坂本龍一のソロ楽曲『B-2 UNIT』が、1980年の第2回ワールド・ツアーのオープニングで演奏された)は、ヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている[要出典]。

YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中華人民共和国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。

ライブにおいてボコーダーボイスで挨拶する事でも有名。いくつかのライブ盤でそのボコーダーボイスによる挨拶を聞く事が出来る。


来歴
結成 - ワールド・ツアー

YMO結成以前、細野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。

1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。

それまでにも坂本と細野は1975年、大滝詠一の「福生ストラット Part I」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がTIN PAN ALLEYのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった[2]。

その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、焼きおにぎりを食べながら(おかかおにぎりやみかんという説もある)話し合いを行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ2人は賛同、YMOが結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」という自身のメモが書かれたノートを見せている。

メンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。しかし実際、細野は横尾に対し記者会見にくるよう伝えていたが、横尾はその日なぜか「行きたくなかった」とキャンセル。最初期YMOのトレードマークであるタキシードも4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。

後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることとなる。

YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本と渡辺香津美の双頭バンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2 人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、新宿のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、上記のKYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。

1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとしてYMO、初となるライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。

1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3日 - 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まったことで、全米でデビューが決定すると語られてきたが、後に「ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978」(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。

1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスし(トミーの意向による)たアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った[1]。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が挙げられ、「Yellow Magic」にタイトル変更されている上、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。1979年8月2日 - 8月4日には、ロサンゼルスのグリークシアターでチューブスの前座を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目されはじめる。

9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売(このとき、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を老若男女に広く浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリス、ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「逆輸入」された形となった。海外でライブツアーをやるアーテイストの殆どが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見しての事だったが、実際はその予見が的中した。ワールドツアーを行う前の「イエロー・マジック・オーケストラ 」発売時はまだ日本の音楽評論家でYMOの音楽について語れる人はおらず、YMOの音楽は早過ぎたとまで言われている。その証拠に「イエロー・マジック・オーケストラ 」の帯には「2001年からの音楽」と書かれている。

この第1回ワールド・ツアーの模様は、翌年2月発売の3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー』に収録された。このアルバムにおいてサポート・ギタリストの渡辺香津美のギター・チャンネルは、渡辺が所属していた日本コロムビアの意向で全編がカットされてしまい、その代わりに、坂本のシンセサイザーが後から録音された(後にこれは『フェイカー・ホリック』などいくつかのライヴ盤で復活する)。この事がむしろアルバム自体の仕上がりを「テクノ」風にさせており、YMOのスタイルを方向付けさせ、ファンを増殖させた事は誠に皮肉な事であり、後になって実況録音的『フェイカー・ホリック』を聴いたファンの多くは、やはり疑似ライブとも言える『パブリック・プレッシャー』の方を支持したのは特筆すべき事である。

こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていた。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツやスネークマンショーらとともに出演。6月には、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ国、19公演で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4連続公演で締めくくられた。

その後は、ワールドツアーをやめている。これは「おもいっきりイイ!テレビ」の「きょうは何の日?」で取り上げられた際のインタビューで細野が「レコーディングが大好きなんですよ レコードが大好きだから ライブに興味がなかったんですけど」と言い、高橋も「僕もレコーディングの方が全然いいですね」と言う。更に坂本は「3人共そうなんですけど 新しい物が好きなのね だから新しい音楽を作るのはやはり スタジオの中で作ってるんで ステージ上うって言うのは勿論新しい事も出来ますけど やはり九割がた もう出来た物の繰り返しでしょ だから そんなに面白くないんですよ」と言っている。

YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年の「再生」時の高橋の発言[要出典]より)。YMOと活動時期を同じくした人気バンド・ゴダイゴのミッキー吉野もまた、「YMOの欧米進出と言っても実態は日本国内向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している


『BGM』 - 『TECHNODELIC』

1981年はYMOの大きな転換期であった。3月、アルバム『BGM』を発表。このアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまでのポップ指向のスタイルから一転、暗く重いヨーロッパ志向のエレクトリックミュージックを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であるとメンバーは語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。

続く11月には、『BGM』とはまた趣向の違う実験的アルバム『テクノデリック』を発表。これは自然音をサンプリングし、加工して楽音として、しかもアルバム全体に使った最初期のアルバムである。

音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこれら2枚のアルバムは、いずれも評論家から非常に高い評価を獲得している。一方で、キャッチーなサウンドを期待した大多数のファン層にとっては難解な物となり、セールス面では下降線を辿った。

それらのアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日の宮城県民会館公演から始まる。『BGM』『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのステージとしては初めてマルチトラックレコーダーが使用された。またこの時期から、メンバーはソロ活動や他アーティストとの活動を盛んに行うようになっていった。「ウィンター・ライヴ」を最後に、翌年にはYMOとしての音楽活動はいったん休止状態となる。

また、グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という略称が一般に定着した[4]。

雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が細野晴臣というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」[5]と坂本が語ったように、坂本と細野の間での路線対立じみた緊張感などが発生しており、メンバー間では、1981年末でYMOとしての活動にピリオドを打つという考えがあったようである。しかしながら、ビジネス面での要求から解散は先延ばしにされた。また、坂本は細野氏との対立を指しているかは不明だが、80年代前半の自分を振り返って「今、あの頃の自分がいたら殴ってやりたい。」と発言している。


『君に、胸キュン。』 - 「散開」へ

翌1982年、メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細野は「はっぴいえんど」での盟友松本隆と共に松田聖子への曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。

坂本は郷ひろみや前川清などのプロデュースを行い、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優として参加する。

高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演して漫才を披露しているものの、この年はグループとしての音楽活動はほとんど無い状態であった。

しかし1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」でYMOとしての音楽活動を本格的に再開する。この曲以降、今度は自らに歌謡曲というレッテルを貼り、ポピュラー志向の日本語ロックを展開した。この曲でオリコン・チャート1位を狙うと宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしてもそのイメージを大きく転換させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。この時期はメンバー全員が年齢が30代に入っていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「オジサンアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらに振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。

『浮気なぼくら』をラストアルバムしてYMOは解散する予定であったが[要出典]、当時高橋幸宏が担当する「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、かつての『増殖』のようにS.E.T.のコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてアルバム『サーヴィス』が制作されることとなった(ラストアルバムである『サーヴィス』を含む後期の作品は、細野曰く「オマケ」であり、彼は『浮気なぼくら』が実質的なラストアルバムであるとしている)。10月には「オールナイトニッポン」に3人が出演し、「散開」(解散)が表明された。

11月23日から12月19日にかけて散開前の最後のツアーである「1983 YMOジャパンツアー」が全国6会場で行なわれる。アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売された。12月22日には日本武道館で入場者無料の特別公演が行なわれ、YMOは「散開」となる。12月12日、13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌1984年2月21日に発売された。また4月には、アルバムと同じ収録日の日本武道館公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』が公開される。


「再生」

散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野がすべて断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された[footnote 1]。YMO再生は、新聞が社会面で、NHK及び民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。

再生時の記者会見は、巨大なベッドに三人が寝ころんで行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた「進め!電波少年」の松村邦洋と松本明子が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた[footnote 2]。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしの物まねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。

5月26日、アルバム『テクノドン』を発表。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が東芝EMIから発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」は本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている[6])。

しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。


2000年代

2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番「細野晴臣 イエローマジックショー」にて3人が共演。3人が老人に扮して浴衣を着て演奏するというユーモラスな趣向で、打ち込みなし、シンセサイザー・エレキベース・生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。どてらを着て演奏していたところから、この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。久々の共演に加え、再生期のライブでは極一部しか披露されなかった「ライディーン」が演奏された。

同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏が行われた(細野と高橋も参加)。

翌2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。

スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペインのバルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9日と10月10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにマッキントッシュを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。

1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。

しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演にともなって、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。

3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。

その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。

一方でアップルジャパンのウェブサイトにおけるSpecial Interviewの中で、坂本が『歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている』ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。

そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」の名義(略称は使用されていない)で出演。会場は京都市の東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった[7]。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の「テクノドン・ライヴ」以来。

2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペインのヒホン市の Laboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTSMEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ・ラマ14世のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。

2009年。docomoのN-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した。この音源はここでしか確認が出来ない。(HASYMO名義)

8月9日、東京・夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー・グッドバイ」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは小山田圭吾、高田漣、権藤知彦であった。


2010年 - 現在
2010年4月に発売された “音楽の事典”「commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー・グッバイ」と、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル・ケイが担当した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組「スコラ 坂本龍一音楽の学校」の「ドラムス & ベース編」に三人で出演すると共に、小山田圭吾と権藤知彦と共に「千のナイフ」「ハロー・グッパイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。

2010年も引き続き夏フェス「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは江崎グリコ「ポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。

なお、2011年6月26日(日)19:00よりアメリカ、ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演がチボ・マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われることが正式にアナウンスされた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







細野晴臣(ベース)
エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライヴではほぼベーシストに徹し、特筆すべきはシンセサイザーをベース代わりに演奏していたことである(ただし、曲によってはエレクトリックベースを使用している部分もある)。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。

高橋幸宏(ドラムス・ヴォーカル)
サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。YMOをきっかけに機械のビートと同期してドラムを演奏した最初期のドラマーである。また、ライヴではドラムを叩きながら自らヴォーカルをとるという異色なスタイルで演奏していた。ファッション・デザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュース業を展開している。音楽の方向性の相違などで険悪になりがちだった細野と坂本の間を取り持つ立場でもあった。「細野さんは閃き型の天才、坂本さんは努力型の天才、僕は一般受けする天才」と言っている。サディスティック・ミカ・バンド時代、ロンドンでのライヴを行った事があった為、結成当時メンバーで唯一海外でのライヴ経験を有していた。

坂本龍一(キーボード)
スタジオミュージシャンとして(大滝詠一や山下達郎のアルバムに参加)活動した後、YMOに参加。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどソロ活動を展開している。彼の「教授」という愛称の名づけ親は高橋である。

担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、TV番組では上記以外のパートを担当することもあった。 YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていた[1]が、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は最初から最後までこの三人であった。

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WU LYF
WU LYF
WU LYF(World Unite Lucifer Youth Foundation)

50 BEST NEW BANDS OF 2010で、3位になってる↓

1.Best Coast
2.The Drums
3.Wu Lyf
4.Sleigh Bells
5.The Smith Westerns
6.Marina & The Diamonds
7.Darwin Deez
8.Magnetic Man
9.Yuck
10.Grouplove





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ウィルコ(Wilco)
ウィルコ(Wilco)
ウィルコ(Wilco)は、アメリカ合衆国のイリノイ州シカゴを拠点として活動するオルタナティヴ・ロック・バンドである。バンド名は、「了解(will comply)」を意味する無線通信用語「wilco」に由来する。

概要

1994年、オルタナティブカントリーグループの「アンクル・テューペロ」からヴォーカリストのジェイ・ファラーが脱退した後に残ったメンバーによって結成された。幾度ものメンバーチェンジを経ており、結成当初より残るのはヴォーカルのジェフ・トゥイーディーとベーシストのジョン・スティラットのみである。

現在までに7枚のスタジオ・アルバム、2枚組みのライブ・アルバム、競演盤を3枚(ビリー・ブラッグと2作、マイナス5と1作)発表している。

2002年に発表された4作目の『Yankee Hotel Foxtrot』が59万枚を売り上げたことで注目を集め、2004年に発表した5作目のスタジオ・アルバム『A Ghost is Born』ではグラミー2部門を受賞した。最新の7作目のスタジオ・アルバム『Wilco (The Album)』は2009年6月30日に発表された。

音楽性

デビューアルバムの『A.M.』(1995年)ではアンクル・テューペロ以来のオルタナティヴ・カントリー風の音楽性であったが、その後はオルタナティヴ・ロックやクラシック・ポップの要素を取り入れ、より実験的な方向に向かっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






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ウォーペイント(Warpaint)
評価:
¥ 1,065
(2010-10-26)

ウォーペイント(Warpaint)
ウォーペイント(Warpaint)は、ロサンゼルスを拠点とする、実験的なアート・ロック・グループ。メンバーは、Jenny Lee Lindberg (ヴォーカル/ベース)、Emily Kokal (ヴォーカル/ギター)、Theresa Wayman (ヴォーカル/ギター)、Stella Mozgawa (ドラムス/キーボード)の4人。

女優のシャニン・ソサモンはこのグループの最初のドラム担当だったが、女優業が忙しくなり十分に貢献できなくなったとして脱退した。ハリウッドの有名人たちの間では、ウォーペイントを好きだと公言する者も多く、急逝したヒース・レジャー、ビリー・ゼイン、元レッド・ホット・チリ・ペッパーズのジョン・フルシアンテなどもそうした中に入る。フルシアンテは、Manimal Vinylレーベルから出たウォーペイントのインディーズ・デビューEP『Exquisite Corpse』(2009年)のミックスも担当した。CMJ Music Marathonでの演奏の後、インディーズ・レーベルのラフ・トレード・レコードと契約した。目下のところ、トム・ビラー(Tom Biller)と一緒に、デビュー・アルバムのレコーデョングに入っている[1]。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




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