ロキシー・ミュージック (Roxy Music)


ロキシー・ミュージック (Roxy Music)は、イギリスで1971年にデビューしたロック・グループ。 バンド名の「ロキシー」は、1950年代のイギリスで事業展開していた映画館チェーン「ロキシー」に因む

 沿革
ここではロキシー・ミュージックの歴史をほぼ3期に分けて解説していく。まず結成から1976年の初解散まで。次に1979年の復活と"Avalon"に到るまでの時期。そして2001年に再編され、ツアーのみであるが活動再開したロキシー・ミュージックである。

〜1976
"ザ・ガスボード"などのバンドでの活動を経て、女子校の美術講師をしながら、陶芸の創作活動していたブライアン・フェリーは、キング・クリムゾンのヴォーカリスト・オーディションをエルトン・ジョン等と共に受けているが落選(この時合格したのはボズ・バレル)しかしその際に、EG(当時のクリムゾンの所属事務所)に知られたことが後の活動に大きな意味を持っている。

"ロキシー・ミュージック#1"というべきバンドはこの時期既に存在していたらしく、メンバーはブライアン・フェリーとシンプソン(彼らは大学時代からの友人だった)に、ロジャー・バーン(g)、デイヴィー・オリスト(g 元ナイス)、デクスター・ロイド(d)らがいたことが知られている。その後、シンセ奏者として参加してきたアンディ・マッケイと、彼が連れてきた友人ブライアン・イーノを加え、シンセにはイーノ、マッケイは木管奏者にコンバートされる。同時期にフィル・マンザネラがイーノの助手のような形で参加(当初の肩書きはサウンドミキサーである)、ロイドの脱退によってトンプソンが参加。オリストの脱退を機にマンザネラがギタリストになって、デビュー時のラインナップが揃う。ここまでが1971年までに進行した。 いわゆるメジャーデビュー前の「ハコ回り」の類がないというのは異例。

1971年12月24日のファーストライヴで、見に来ていたであろう、以前クリムゾンのオーディションで自分を落としたEG関係者を打ちのめし、翌年2月14日にマネジメント契約を勝ち取る。6月には1st.アルバム"ROXY MUSIC"、7月には1st.シングル"Virginia Plain"を発表。当時グラムロックシーン全盛(彼らのメジャー・デビューはデヴィッド・ボウイの"ジギー・スターダスト"発売直後だった)のロンドンで、グラムロック一派と見なされ、後世もそう分類しているが、彼らは他のグラムロッカー達と、サウンドの特徴において全く共通点がなく、その異質ぶりはシーンで大きく注目されたことは、NMEによる各部門賞で新人賞を受賞したことからも伺える。1st.アルバム"ROXY MUSIC"の特徴は、1990年代のピチカート・ファイヴが得意だった本歌取り、そして今日のDJが行っている「リミックス」「マッシュアップ」を先取りしていたことである。古典的なロックンロールの典型パターンをループさせ、当時としては非常に斬新であるシンセサイザーノイズを被せた「Re-make/Re-model」は、今で言うリミックスに他ならない。また、 1950年代のアメリカ〜イギリス映画のサントラを継ぎ接ぎしたような「The BOB (Medley)」は、現在のマッシュアップが別々の曲を並列でリミックスするのに対し、異なった曲を直列で演奏するという技巧的な違いはあるが、「異なった曲を並べて趣の違いを堪能する」と言うコンセプト面でマッシュアップの萌芽とも解釈できる。

注:翌1973年のNME誌の"Most Promising New British Name" 部門でロキシーは1位,、"Best UK single"に"Virginia Plain"が2位、"Best UK Male singer"部門ではフェリーが17位にランク。

その後彼らはデヴィッド・ボウイの"ジギー・スターダスト"英国ツアーのサポート・アクトの傍ら精力的にレコーディングなどを行い、1973年3月には早くも2nd.アルバム"For Your Pleasure"を発表。「男装の麗人」アマンダ・レアが登場したジャケットが話題となるとともに、"Gram noir"と形容された、よりダークかつ先鋭化した内容が注目を集め、英チャート上位に食い込む成功を収める。しかしこの頃既に、フェリーとともにバンドの創設からのメンバーだったシンプソンが脱退(1st.録音の段階で脱退していたという説もある。"Virginia Plain"のベースはリック・ケントン)しており、このアルバムでは後にThe Smithsを手がけるジョン・ポーターがベースを担当している。なおこの後ロキシーは解散までレギュラーのベーシストを加入させておらず、ジョン・ガフタフスン(1973〜1975年)、ジョン・ウェットン(1975年頃)、リック・ウイリス(1975年ツアー)、サル・メイダ(1975年ツアー)、ゲイリー・ティッブス(1978〜1980年)、アラン・スピナー(1979〜1983年)、ニール・ジェイソン(1980〜1983年)が出入りしている。そして、このアルバムをリリースした後、ロキシーの音楽を考える上で転機とも言えるメンバー・チェンジが発表される。ブライアン・イーノの脱退である。元々イーノは効果音・エフェクト担当という非常にファジーなポジションであったが、当時の彼の人気は絶大で、フロントであるべきフェリーが「バンドに二人もブライアンは要らない」と言ってイーノをクビにしたとの説まであるが、真相がどのようなものであるにせよ、メンバー間の音楽・非音楽両面における軋轢はかなり大きかったことが予想される。

バンドは元カーヴド・エアのマルチプレイヤーである(キーボードとヴァイオリン)エディ・ジョブソンを加え、1973年11月に3rd.アルバム"Stranded"を発表。前2作の喧騒に溢れた未来派的なサウンドを薄める代わりに、ヨーロッパ浪漫主義的方向を指向しはじめる。実際「ノンプレイヤーのバンド」であったロキシーにあって確かな楽器の演奏技術を持つジョブソンの加入は大きな意味を持ち、この時期のロキシーはファンに非常に根強い人気を持っている。同時期にフェリーが発表した1st.ソロアルバム"These Foolish Things" (邦題「愚かなり、我が恋」)で、ロック以上に濃厚に感じさせたスタンダード・ナンバーへの愛着といったノスタルジックかつアダルト向きな音楽嗜好が、イーノというある種の異物を排除した結果、ロキシーに反映されるようになったもので、同時に最初のロキシーに色濃く感じられたプログレッシブ・ロック的と言える前衛性は薄れていく。

1974年11月、4th.アルバム"Country Life"発表。更に耽美・叙情性を増した音楽性もさることながら、シースルーの下着を着けた女性2人というジャケットが物議を醸す。カナダでは女性2人が消され、ドイツでは1人の顔だけをアップにし、アメリカでは袋入りで発売される等、国ごとに様々な措置が取られた。 右側の黒い下着の女性は、もとは男性である[2]。

1975年10月、5th.アルバム"Siren"発表。ジャケットに写っている女性モデル、ジェリー・ホールは、当時ブライアン・フェリーの恋人だったが、後年ミック・ジャガーと結婚。本作からの先行シングル「Love Is The Drug」は、全英2位・全米30位のヒットを記録し、一躍ロキシーの名を広めた。しかし、ツアー終了後にロキシーは一度解散。1976年発表のライヴ盤"Viva! Roxy Music"が、初期ロキシー最後のアルバムとなった。

1978〜1983
ソロ活動をしていたフェリー、801バンドやフェリーのバンドで活動したマンザネラ、TV番組『ロック・フォリーズ』の音楽監督などを務めたマッケイ、フェリーのバンドで活動したトンプソンの4人は、1978年にロキシー・ミュージックを再結成。キーボードとベースは固定メンバーを迎えず、セッション・メンバーで補うことにした。そして、1979年に復活作"Manifesto"を発表。イーノもジョブソンも不在のため、以前よりもポップな音作りに変化したが、退廃的な美学は不変であった。しかし、1980年4月にトンプソンが指を骨折して脱退、アンディ・ニューマークが準メンバーとして加わる。

1980年にアルバム"Flesh + Blood"を発表。本作からのシングル"Same Old Scene"は、映画『タイムズ・スクエア』で使われる。そして、1980年12月8日に凶弾に倒れたジョン・レノンを追悼するため、1981年にジョンのカヴァー"Jealous Guy"をシングルで発表。全英1位となった。

1982年、復活第3弾アルバム"Avalon"発表。かつての前衛的な色合いは、すっかり影を潜めたが、楽曲の充実度は高く、先行シングル"More Than This"は全英6位のヒットとなり、アルバム自体も全英1位を獲得。その後、大規模なワールド・ツアーを行う。ヨーロッパではキング・クリムゾンを前座に従え、1983年2月には、ロキシーとしては79年以来2度目の来日も実現(フェリーは1977年、マンザネラとトンプソンをバックに従えてソロ名義で来日している)。その後、ライヴ・ミニ・アルバム"The High Road"を最後に、ロキシーは再び眠りについた(後に、"Avalon"発表後のツアーの発掘ライヴ盤"Heart Still Beating"が発表される)。

バンドの変遷
(本節は特記以外、保科好宏「ロキシー・ミュージック・ストーリー」『ストレンジ・デイズ』(2007年11月号、p26 - p29)を参考文献とする。)

1960年代中頃 - ブライアン・フェリー(19歳)が、ニューカッスル大学の友人グラハム・シンプソン、ジョン・ポーターらとR&B系バンド「ザ・ガス・ボード」を結成する。

1968 年7月 - ブライアン・フェリーとグラハム・シンプソンは大学を卒業して教師となり、休日は一緒に作曲を行い、またフェリーはシンプソンからピアノを習う。

バンド・メンバー募集新聞広告を出す - グラハム・シンプソンが教職を失ったことを機に、フェリーとシンプソンは本格的にバンド活動をすることにし、新聞にバンド・メンバー募集広告を出す。

アンディ・マッケイ加入 - 友人からアンディ・マッケイを紹介され、バンドに加入。

ブライアン・イーノ加入 - マッケイが友人のブライアン・イーノを誘い、バンドに加入。

デクスター・ロイド、ロジャー・バン加入 - 新聞広告に応募してきたロイドとバンがバンドに加入。

1971 年初頭 - ロキシー・ミュージック結成。

ロイド、バン脱退 - 左記2人の後任としてポール・トンプソンとデヴィッド・オリストが加入。フィル・マンザネラもオーディションに応募したがギタリストとしては採用されず、サウンド・ミキサーとしてバンドに採用される。

3ヶ月後、オリスト脱退 - バンドの音楽性がオリストと合わず脱退し、マンザネラが正式にギタリストとしてバンドに加入する。

 1972 年2月14日 - EGマネジメント(EGレコード[3])と契約し、プロのバンドとして歩み出す。

1972年6月 - キング・クリムゾンの作詞家ピーター・シンフィールドのプロデュースによるデビュー・アルバム『ロキシー・ミュージック』[4]を発表し、全英チャート10位となり、シングル『バージニア・プレイン』が4位となる。

1972年8月 - デヴィッド・ボウイの前座として出演。

1972年10月 - ロキシー・ミュージックとして単独ツアーを行う。

1972年12月 - ジェスロ・タルの前座として全米ツアー。アメリカでの評判はよくなく、2007年時点でも同様。全米チャートでは、アルバムでは『マニフェスト』(1979年)の23位、シングルでは『Love Is the Drug』(『恋はドラッグ』1975年)の30位が最高。

1973 年3月 - 2作目のアルバム『フォー・ユア・プレジャー』を発表し、全英4位となる。ブライアン・フェリー自身はこのアルバムが最も気に入っている[5]。また、シングルのみの『パジャマラマ』もトップ10入りする。

1973年6月 - ブライアン・イーノ脱退。脱退理由は諸説流布されている。イーノの脱退によりバンドの人気に影響が出たため、EGプロダクションはバンドの中心にフェリーを置くことにして新な展開を図る。

1973年10月 - フェリーが初のソロ・アルバム『愚かなり、我が恋』(These Foolish Things)を発表し、全英5位になる。

1973年11月 - 3作目のアルバム『ストランディッド』を発表し、初めて全英1位となる

1974 年6月 - アンディ・マッケイが初のソロ・アルバム『In Search of Eddie Riff』を発表[7]。

1974年7月 - フェリーが2作目のソロ・アルバム『アナザー・タイム・アナザー・プレイス』(『いつかどこかで』『Another Time, Another Place』)を発表。

1974年11月 - 4作目のアルバム『カントリー・ライフ』(Country Life)を発表し、全英3位となる。このアルバムからエディ・ジョブソンがバンドに加入しているが、ジョブソンは既にフェリーのソロ・アルバムに参加している。

1975 年10月 - 5作目のアルバム『サイレン』を発表し、全英4位となる。このアルバムに収録された『恋はドラッグ』(Love Is the Drug)は全英2位となる。このアルバムは音楽評論家の間で1975年度のベスト・アルバムと評される[8]。

1975年 - フィル・マンザネラが初のソロ・アルバム『ダイヤモンド・ヘッド』(Diamond Head)を発表[9]。

1976 年6月 - ロキシー・ミュージックの解散が発表される。

1976年7月 - 最後のアルバムとして、初ライブ録音の『VIVA! ロキシー・ミュージック』(Viva!)を発表し、全英6位となる。

1977 年 - ブライアン・フェリー・バンドが来日。このバンドにはマンザネラも参加している。

1979 年3月 - フェリーはマンザネラとマッケイにロキシー・ミュージック再結成の話を持ちかけ、3月に『マニフェスト』(Manifesto)を発表し、全英7位となる。以後レギュラー・メンバーをフェリーとマンザネラ、マッケイの3人とする。

1980 年5月 - アルバム『フレッシュ・アンド・ブラッド』(Flesh + Blood)を発表し、全英1位となる。

1982 年5月 - アルバム『アヴァロン』(Avalon)を発表し、全英1位となる。『アヴァロン』はロキシー・ミュージックのアルバムの中で最も評価が高く[10]、また最も人気があるアルバムである[5]。

1982 年8月27日 - キング・クリムゾンを前座として、フランス・フレジュスで公演[11]。

1983 年2月 - ワールド・ツアーで来日公演。

ワールド・ツアー終了後 - ロキシー・ミュージック解散。その後各メンバーはそれぞれ活動していくが、客演などで共演している。

2001 年 - ワールド・ツアー


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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