EXPLOSIONS IN THE SKY(エクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイ)
 

最新作「テイクケア、テイクケア、テイクケア」は全米アルバムチャートTOP20入りを果たすなど、今やアメリカを代表するポスト・ロック・バンド、Explosions in the Sky。インストゥルメンタルでありながら、物語性の高いそのサウンド、それを支える革新的なギター・ワークで独自の世界を築き上げたテキサス出身の4人組。1999年に結成され、これまで6枚のスタジオ・アルバムをリリースしている。4人がそれぞれに織りなすサウンドが重なり合い、昇華していく様は小規模なシンフォニーの様とも評され、また抜群の集中力で繰り広げるエモーショナルなライヴ・パフォーマンスは唯一無比。今、US/UKで最も人気の高いポストロック・バンドのひとつである。


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エルヴィス・コステロ(Elvis Costello )

 

エルヴィス・コステロ(Elvis Costello、1954年8月25日 - )は、イングランドのミュージシャンである。本名はデクラン・パトリック・アロイシャス・マクマナス(Declan Patrick Aloysius MacManus)。


プロフィール

イングランドのロンドンに生まれる。芸名の「エルヴィス・コステロ」は、エルヴィス・プレスリーと、父方の祖母の旧姓コステロに由来する。「コステロ」はイタリア系の響きに聞こえるが、一般にアイルランド系の名前として多い苗字である。 父親のロス・マクマナスはアイルランド系で、ジョー・ロス&ヒズ・オーケストラでシンガー&トランペッターをつとめたミュージシャンだった。コステロは父親がもらってくる大量の試聴用レコードに囲まれて育ち、その豊富な音楽的素養を培った。
幼少よりビートルズなどの影響を受け、働きながら「フリップ・シティ」というバンドで活動を始める。 デビュー前の1974年に最初の妻・メアリーと結婚、デビュー時には既に息子・マシューがいた。 1977年パブロックムーブメントの立役者ニック・ロウのプロデュースにより、シングル『レス・ザン・ゼロ(Less Than Zero)』でデビュー。
1987年のシングル"A Town Called Big Nothing (Really Big Nothing)"では父と親子共演を果たしている。 プロデューサーとして関わったのが縁でザ・ポーグスのベーシスト、ケイト・オリオーダンと1986年に再婚。2003年にはジャズ歌手のダイアナ・クラールと3度目の結婚。2006年に双子の息子が生まれている。 最初の妻・メアリーはコステロとの離婚後、芸名に「コステロ」姓を名乗り「メアリー・コステロ・ショー」というラジオ番組でDJをつとめたこともある。


概要

デビュー当初のコステロは、パンク調の作品が多く「怒れる若者」とも言われた。初来日時東京にてプロモーションのため、トラックの荷台に乗り日本の学生服を着てライヴ・パフォーマンスを行った。
ファースト・アルバムは『マイ・エイム・イズ・トゥルー(My Aim Is True)』であるが、日本ではセカンド・アルバムの『ディス・イヤーズ・モデル(This Year's Model)』から発売された。このアルバムからは自身のバンドであるジ・アトラクションズを率いるようになり、その後もソロやオーケストラとのコラボレーション等、多彩な活動を展開、ヒットを連発する。ポール・マッカートニーとの共作である代表曲『ヴェロニカ(Veronica)』は、フジテレビの『とくダネ!』の主題歌になった。
また、代表的なバラード曲『アリスン(Alison)』もドラマで時々起用される人気曲である。
2000年以降はNorthの様なジャズ作品や、アラン・トゥーサンとの共作であるThe River In ReverseではR&B、Secret, Profane & Sugar Caneではカントリー・ミュージック、Il Sognoではバレエ音楽を手がけるなど、など従来の枠に収まらない活動を積極的に行っている。
2003年に「エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ(Elvis Costello & the Attractions) 」名義でロックの殿堂入りを果たした。
日本人を茶化した『トウキョウ・ストーム・ウォーニング(Tokyo Storm Warning)』という作品がある。
Mr.Childrenの桜井和寿は、1995年のシングル『シーソーゲーム ?勇敢な恋の歌?』では「コステロをパクった」と公言しており、敬意を込めてミュージック・ビデオでコステロの格好を真似ている。


出典:Wikipedia





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CARIBOU

マニトバとしてエレクトロニカ〜フォークトロニカ・シーンに旋風を起こしたファースト・アルバム『Start Breaking My Heart』、エレクトロニカ・ミーツ・シューゲイザーの傑作と謳われたセカンド・アルバム『Up In Flames』、カリブーに改名後リリースされたサード・アルバム『The Milk Of Human Kindness』では前2作を総括するような内容とクラウト・ロックを彷彿させる最新モード、そしてブレイクビーツ的手法も試みファンの度肝を抜いた。2007年にリリースした『Andorra』は総天然色ポップス〜サイケデリアを全開させ、カナダ版グラミー賞Polaris Music Prizeを受賞した。2010年に傑作『Swim』をリリース。英米のメディアに向けて発表されたプレス・リリースにて、カリブー本人は「ほとんどのダンス・ミュージックで使われている金属的な音ではなく、自在にほとばしる水のようなサウンドでアルバムを作った」と本作の仕上がりについて語っており、既存のエレクトロニカの枠を超越した意欲的なダンス・ミュージックとなっている。 欧米メディアから歴史的名作と大絶賛され、数多くのメディアからその年のベスト・アルバムの1枚として選出された。





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BUSY P (ペドロ・ウィンター)
 

ジャスティス、アフィなどを擁し、シーンの最先端を行く世界最強のカッティング・エッジなレーベル、エド・バンガーのオーナーであるペドロ・ウィンター。かつてはあのダフト・パンクのマネージャーとして、そして今はレーベル運営者としてのみならず、DJ、リミキサー、そしてプロデューサーとしてマルチな才能を発揮している彼のアーティスト名が、このビジーP。最近ではビジーPとしてだけでなく、殆どのエド・バンガー作品のヴィジュアルを手掛けるグラフィック・アーティスト、SO-MEとのユニット、BUSY PICTIONARYとしても活動しており、日本のファンの間でも人気が高い。


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バディ・ガイ(Buddy Guy)

 

バディ・ガイ(Buddy Guy, 1936年7月30日 - )はアメリカ合衆国ルイジアナ州レッツワース出身のブルースギタリスト、シンガー。本名は、ジョージ・ガイ。1958年のデビューからシカゴのシーンで活躍し、いまやシカゴ・ブルースの第一人者的存在となった。テンションの高いギター・プレイはロック・ファンにも幅広く受け入れられており、最も成功したブルース・アーティストのひとりである。女性ラッパーとして活動しているショウナ(本名:ラショウナ・ガイ)は娘。


来歴

1950年代にルイジアナ州バトンルージュで、地元のミュージシャン、ビッグ・パパ・ティリーのバンドで活動していたバディは、シカゴのチェス・レコードと契約すべく、ラジオ局WXOKのDJだったレイ・メドウズの協力を得て、1957年に2曲のデモ・レコーディングをする。
翌1958年、シカゴへ移住。しかしながらチェスには送ったはずのデモ・テープは届いていなかったことを知った。同年、オーティス・ラッシュの紹介でコブラ・レコードと契約。傘下のアーティスティック・レコードからシングル"Sit And Cry (The Blues)" b/w "Try To Quit You Baby"でデビューを果たす。このセッションではバディは歌のみで、ギターはオーティス・ラッシュが弾いた。
1959年にコブラ・レコードが倒産すると、彼は晴れてチェスと契約する。チェスの初セッションは1960年。同レーベルには1967年まで在籍し、"First Time I Met The Blues"を始め、彼の個性が開花した名作を多く残した。1960年の2度目のセッションには、後のパートナーとなるジュニア・ウェルズも参加している。逆に1965年には、バディはジュニアのアルバムHoodoo Man Bluesのセッションに参加した。チェス時代は、自らの作品だけでなく、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらチェスの大物たちとのセッションもこなした。
チェスとの契約が終了するとバディは1968年、ヴァンガード・レコードと契約。同年、アルバムA Man And The Bluesをリリースする。同レーベルでは計3枚のアルバムを制作した。
一方、1960年代後半からジュニア・ウェルズとデュオでの活動もするようになった。デュオ名義の作品としてはBuddy And The Juniors(1969年)、 Buddy Guy & Junior Wells Play the Blues(1972年)などがある。後者には、エリック・クラプトンも参加した。1975年3月には、「第2回ブルース・フェスティバル」出演のため、デュオで来日。バンドには、バディの弟でギタリストのフィル・ガイも加わった。
1970年代、バディはこの他、JSP、ブラック・アンド・ブルーなどからアルバムを発表した。しかしながら1980年代に入ると、活動の場は減ってしまう。1987年にジャパン・ブルース・カーニバル出演のため、再びジュニアとともに来日を果たしているが、本格的な活動を再開するのは、1990年代に入ってからのことだった。
1991年、シルバートーンからDamn Right, I've Got The Bluesをリリースする。このアルバムは、前年に亡くなったスティーヴィー・レイ・ヴォーンに捧げられた曲も収録され、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン、マーク・ノップラー等が参加したことも手伝って、ロックファンからも注目を集めた。以後、バディの人気は急上昇し、世界各地のフェスティバルなどでも引っ張りだこになる。日本にもブルース・カーニバルを始め、たびたびツアーで訪れるようになった。2006年7月には、ウドー・ミュージック・フェスティバルへの出演もしている[1]。
2006年、ローリング・ストーンズが行ったビーコン・シアターでの慈善コンサートのライヴにゲスト出演し、マディ・ウォーターズの「シャンペン・アンド・リーファー」を演奏した。この模様はローリング・ストーンズのライヴ・アルバム「シャイン・ア・ライト」に収録されており、また、マーティン・スコセッシ監督による映画「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」にも収録されている。
2008年、デレク・トラックス、スーザン・テデスキ、エリック・クラプトン、ロバート・ランドルフらをゲストに迎えたアルバムSkin Deepを発表した。
バディは、シカゴ市内でブルースクラブ「バディ・ガイズ・レジェンズ」を経営しており、シカゴの名所のひとつとなっている。

出典:Wikipedia



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ビーディ・アイ (Beady Eye)

 

概要

2009年、オアシスのリーダーであったノエル・ギャラガー(ギタリスト・ボーカリスト・ソングライター)がオアシスを脱退。同バンドは実質的に解散状態となる。その後、オアシスのリードボーカルであったリアム・ギャラガーが、オアシスの活動を終焉させ、残されたメンバーとともに新たに結成したバンドがビーディ・アイである。オアシス時代からのギタリストであるゲム・アーチャー、ベーシストのアンディ・ベル(ビーディー・アイではギタリストへ転向)、ドラマーのクリス・シャーロックからなる
また、ライブメンバーにジェフ・ウートンがベーシストとして,マット・ジョーンズがキーボーディストとして加わっている。


来歴

2009年11月の早期には新作の制作とレコーディングを開始し[5]、2010年11月に彼らのデビューシングルをリリースすることを発表した[2][6]。
2010年7月、サンデー・タイムズ上のインタビューで、リアムは「オアシスよりビッグになる」と述べ、加えて彼の兄であるノエル・ギャラガーについて「あっという間にすぐに這い戻ってくるだろう」と述べた。また、アルバムは大半が完成しており、メンバーそれぞれが4曲を書いたという[7]。
2010年11月10日、彼らの公式サイトにてデビューアルバムからの新曲「ブリング・ザ・ライト」(Bring The Light)のフリー・ダウンロードが開始された。また、彼らのYouTube公式ページでも公開された[8]。
「ブリング・ザ・ライト」が、フリー・ダウンロードから1日だけで35万回以上ものダウンロード・再生数に達した[9]。
続く2011年2月にはスティーヴ・リリーホワイトによるプロデュースのデビューアルバム『ディファレント・ギア、スティル・スピーディング』(Different Gear, Still Speeding)が日本先行でリリースされた[2][9][10]。オリコン週間アルバムチャートにて5位、全英チャートでは3位を記録した。


出典:Wikipedia



メンバー

公式メンバー
リアム・ギャラガー(Liam Gallagher ) - ボーカル
ゲム・アーチャー(Gem Archer ) - ギター
アンディ・ベル(Andy Bell ) - ギター
クリス・シャーロック(Chris Sharrock ) - ドラムス

ライブメンバー
ジェフ・ウートン(Jeff Wootton ) - ベース
マット・ジョーンズ(Matt Jones ) - キーボード

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アット・ザ・ドライヴイン (At The Drive-In, 略称ATDI)

 

アット・ザ・ドライヴイン (At The Drive-In, 略称ATDI) は、アメリカ合衆国テキサス州出身のロックバンド。ポスト・ハードコアにカテゴライズされることが多い。 バンド名の由来は、ポイズンの「Talk Dirty To Me」という曲の歌詞から取っている。

略歴

1994年、メキシコとの国境沿いにある町エル・パソにて結成される。
11月に自主レーベルのウェスタン・ブリード・レコーズからEP『Hell Paso』をリリース。

1995年6月にEP『Alfaro Vive, Carajo!』をウェスタン・ブリード・レコーズよりリリース。

1997年、1stアルバム『Acrobatic Tenement』をフリップサイド・レコーズよりリリース。
9月にEP『El Gran Orgo』をオフタイム・レコーズよりリリース。

1998年8月に2ndアルバム『In/Casino/Out』をフィアレス・レコーズよりリリース。

1999年EP『Vaya』をフィアレス・レコーズよりリリース。

2000年に大手のグランド・ロイヤルと契約、先行シングルカットされた「ワン・アームド・シザー - One Armed Scissor - 」で人気が急上昇する。
9月に、メジャーデビュー・アルバム『リレーションシップ・オブ・コマンド - Relationship Of Command - 』をリリース。リンプ・ビズキットやスリップノットなどのバンドを発掘したプロデューサーのロス・ロビンソンがサポートした事や、イギー・ポップがゲスト参加した事で注目を集める。
2001年3月に、『メンバー間の音楽性の違い』から突然の無期限活動休止を発表し、事実上の解散となった。
その後、セドリックとオマーはマーズ・ヴォルタを結成し、ジム、ポール、トニーはスパルタを結成する。ポールは2005年にスパルタを脱退し、マーズ・ヴォルタに移籍している。

2011年、再結成ライヴを行うことを発表。



メンバー

セドリック・ビクスラー
 (Cedric Bixler, 1974年11月4日 - ) (Vo)

ジム・ワード
 (James Ward, 1976年9月19日 - ) (G/Vo/Key)

オマー・ロドリゲス
 (Omar Rodriguez, 1975年9月1日 - ) (G)

ポール・ヒノジョス
 (Paul Hinojos, 1975年7月17日 - ) (B)

トニー・ハジャー
(Tony Hajjar, 1974年8月17日 - ) (Dr)

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MICHAEL KIWANUKA(マイケル・キワヌーカ)

マイケル・キワヌーカのデビュー・アルバム『ホーム・アゲイン』ほど、強い印象を残すレコードはあまりない。リスナーは聴きはじめてすぐに、モダンでありながら名作を聴いた時のような親しみのあるサウンドに浸される。これはコンテンポラリーであると同時に時空を超えるという、そのバランスが完全に取れているレコードだ。  「僕はただ、再生するとどこか別の場所に連れていってくれるようなレコードが作りたかったんだ」と、このノース・ロンドン出身の25歳は言う。「贅沢なサウンドのインストゥルメンテーション(楽器編成)と、昔のレコードみたいな感触が欲しかった。温かくて、穏やかで、リスナーを小さな世界へ連れていくような。そこにはヴァイブと音と色が溢れてるんだ」。  キワヌーカにとって音楽的に大きな影響となったのは、マーヴィン・ゲイやオーティス・レディング、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、シャギー・オーティス、ロバータ・フラックの『ファースト・テイク』、ビル・ウィザーズの『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』、ディアンジェロによるモダン・ソウルの名作『ブードゥー』などだ。特に最後の一枚はキワヌーカのリスナーとしてのテイストが70年代音楽に限られていない証拠だが、彼の音楽に向けられるかもしれない「レトロ」という批判に対しては、彼自身はふっと受け流すだけだ。  「本当のところ、裏には何の意図もないんだ」と彼は主張する。「僕の声が古びて聞こえたとしても、それはまったく意図的じゃない。僕はこういうサウンドが好きだから、こんな曲が生まれてくるんだよ。僕は、レコード契約を取り付けるために曲を書きはじめたんじゃない。自分を表現するために曲を書いたら、こんな昔風のサウンドになったんだ」。  それ以上に、キワヌーカが86年生まれであることを考えると、彼の若く鋭い耳にとっては過去の音楽も新鮮に聞こえるのだろう。「僕には、ああいうレコードって新しく聞こえるんだ。子供の頃、僕の家にはレコードがなかった。ビートルズのアルバムさえ一枚も知らなかったんだよ。だから僕にとっては、どれもまったく新しい音楽なんだ。何十年も前に録音されたものであってもね」。  ウガンダからの移民である両親のもと、ロンドン北部の郊外の町マスウェル・ヒルで生まれたマイケル・キアヌーカは、音楽がほとんど流れない家で育った。10代はじめに北ロンドン郊外のスケーター・キッズ達と付き合うようになったのと同じ頃、ロック(ニルヴァーナやレディオヘッド)に出会う。後に月刊音楽誌の付録として付いてきたソウルのコンピレーション・アルバムを手に取った彼は、オーティス・レディングのサウンドに夢中になる。そこには、"(シッティン・オン・)ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ"のアウトテイク・ヴァージョンを録音しながら、オーティスがエンジニアと交わしていた会話が収められていた。その時点から、彼は生々しくオーセンティックな音楽を作る決意を固める。  とはいえ、キャリアの初期に見つけたギタリストとしてのセッション・ワークは、バッシーやチップマンクの仕事など、どれもアーバン・ジャンルに入るものだった。その経験から多くを学んだとキアヌーカは言うが、もっとも大きな教訓は自分自身の音楽的情熱は別のところにあると気付いたことだった。「僕の興味は他の音楽にあった」と彼は認める。「だから、あの仕事はそこへ辿り着くための手段にすぎなかったんだ。それに、僕は僕自身の曲を書かざるをえなくなった。その時やっていた音楽を、自分のハートの中には感じなかったからね」。  ソウルとジャズに深くのめり込みながらも、キアヌーカが本当にインスパイアされたのは、その二つのスタイルをフォークとクロスオーヴァーさせたビル・ウィザーズの音楽だった。「ビル・ウィザーズはとてもルーツ志向で、アーシーだったんだ」と彼は指摘する。「それでも、彼はソウル・シンガーとされた。僕にとって、彼はフォーク・アーティストなんだよ。そのことが僕に続けていく勇気をくれたね。僕はアコースティック・ギターを抱えたブラックの男で、自分がどこに当てはまるのかわからなかったから」。  ロンドンのアコースティック・サーキットで演奏しはじめると、キワヌーカはすぐに注目され、コネを作っていった。特に現在のマネージャーと知り合い、それを通じてコミュニオン・レコーズが彼の音楽に興味を持つ。2011年にはこのレーベルから二枚のEP「テル・ミー・ア・テイル」と「アイム・ゲッティング・レディ」がリリースされ、高く評価された。  EPに引き続き、アルバム『ホーム・アゲイン』のプロデュースを手掛けたのがザ・ビーズのポール・バトラーだ。録音はワイト島の海辺の町ヴェントナーにある、ヴィンテージ機材が詰め込まれたポール・バトラーの自宅の地下のスタジオで行われた。そこで二人はこのアルバムから聞こえるほぼすべての楽器を演奏し、バトラーはフルートからブラス、シタール、ストリングスに至るまで、すべてに素晴らしく親密で緻密なプロダクションを施した。それは、キワヌーカが自分の曲に見ていたヴィジョンとパーフェクトに合致した。「僕らはこのレコードをとてもモダンにした」と彼は言う。「ものすごくエディットしたんだよ。自分達がまさに欲しい音になるまで手を加えたんだ」。  感動的なオープニング曲"テル・ミー・ア・テイル"が鳴った瞬間からすぐわかるのは、『ホーム・アゲイン』が非常に特別なアルバムであるということだ。よりアップビートな"ボーンズ"はまるでプリンス・バスターのように傷心を歌いながらも、抗しがたくキャッチーな曲。"アイル・ゲット・アロング"ではソウルのグルーヴがうねり、このレコードが無駄なものを削ぎ落とした美しい作品であることを証明している。ザ・ステイプル・シンガーズの影響がゴスペル的な曲調から聞こえる"アイ・ウォント・ライ"では、まるでキアヌーカが現代のスピリチュアルなフィーリングを提示しているようだ。一方、"レスト"で彼は優しい愛のララバイを歌い、"オールウェイズ・ウェイティング"ではクラシック音楽の要素をロバータ・フラックの告白調の親密さと混ぜ合わせてみせる。  だが、本作のサウンド、そしてテーマをもっともとらえているとマイケル・キワヌーカが感じているのが、タイトル・トラックの"ホーム・アゲイン"だ。「あれは本当に僕にとって、すべてを繋げる曲なんだ」と彼。「アルバムのために書いた一番初めの曲の一つなんだけど、書いてきた曲をスタジオで変えて、進化させている間も、あれだけは絶対に捨てられなかった。他の曲もそうだけど、あの曲には希望があるんだよね。僕はホームを、安らぎと幸せに溢れる場所のメタファーとして使ったんだ」。  とはいえ、レコード制作中には気持ちを穏やかにしておくのが難しいこともあり、キワヌーカは自分を力づけるものとして曲を利用したという。特にソウルフルな"アイム・ゲッティング・レディ"や、ダークで秘密を打ち明けるような"エニ・デイ・ウィル・ドゥ・ファイン"、そして明らかにその感情について歌っている"ウォリー・ウォークス・ビサイド・ミー"などだ。「心配しすぎると、本当に身動きが取れなくなってしまう」と彼は認める。「僕にはものを考えすぎるきらいがあって。今言ったような曲はどれも、僕が自分に語りかけてるんだ。信じる勇気を持とうとしてね」。  もちろん、この素晴らしいアルバム『ホーム・アゲイン』は、キワヌーカがそんな疑念に悩むべきではないミュージシャンであることを示している。この作品で、滑らかな声を持つシンガーは国際的に知られるようになり、彼の愛するレコードがマイケル・キワヌーカをインスパイアしてきたのと同じように、リスナーの心に触れることだろう。  「僕はただ、他の人にとって自分の曲が何か意味のあるものになってほしいだけなんだ」と彼は話す。「僕にとっては、それこそが音楽の役目だから。好きなレコードはどれも、自分がそれを最初に聴いた時どこにいたかが思い出せるだろう? もしくは、ある時のことや、誰かのことを思い出させてくれる。僕が望むのは、僕の曲が人の心を動かすことなんだ」。

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ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)


ザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses)はイギリスのロックバンド。1983年にマンチェスターにて結成され、ニュー・オーダーやハッピー・マンデーズ、ザ・シャーラタンズといったバンドとともに、マッドチェスター・ムーヴメントの中心的存在として活躍。『ストーン・ローゼズ』(1989年)と『セカンド・カミング』(1994年)を発表した後、1996年に解散。わずか2枚のアルバムしか残さなかったにもかかわらず、オアシスをはじめとするブリットポップや後の音楽シーンに多大なる影響を与えた[1]。
解散後も幾度となく再結成が噂されてきたが、2011年10月18日に再結成することが正式発表された[2]。


初期

1983年、幼馴染のイアン・ブラウン(ヴォーカル担当)とジョン・スクワイア(ギター担当)によって結成される。残りのメンバーはリズムギター担当のアンディ・カズンズとベース担当のピート・ガーナー。1984年にドラムス担当のサイモン・ウォルステンクロフトが脱退した後、新たにレニ(本名アラン・レン)がドラマーとして迎えられラインナップが固定された。
ストーン・ローゼズというバンド名の由来は諸説ある。一つはローリング・ストーンズのストーンとポール・ウェラーに傾倒していたイアンがザ・ジャムの「イングリッシュ・ローズ」からつけたというもの[要出典]。また、rockin'on誌のインタヴューでは硬いもの=石、と柔らかいもの=薔薇の組み合わせであると語っている[要ページ番号]。
1984年の夏を作曲と練習に費やした後、同年10月23日にロンドンにて初めてのライヴを行う。1985年春にはプロデューサーのマーティン・ハネットと共にスタジオ入りする。当時の彼らは展開が速く攻撃的でパンク色の強い曲を演奏していたが、後にファーストアルバムの1曲目を飾る幻想的な『アイ・ウォナ・ビー・アドアード』もこの頃に書かれており、音楽的に過渡期にいた。結局、ハネットとレコーディングした作品にメンバーは納得せず、お蔵入りとなった。しかし、このセッションから得られた『ソー・ヤング/テル・ミー』が両A面シングルとして同年9月にThin Line Recordsからリリースされ、結果的にこれがローゼズのデビューシングルとなった。
1986年5月にカズンズが脱退しローゼズは4人編成となる。1987年5月にはFM Revolverよりセカンド・シングル『サリー・シナモン』を発表。これまでのセックス・ピストルズ調のノイズを轟々と響かせた曲から一転し、バーズ調のメロディ重視の楽曲へと大きな変化を遂げる。初期プレスの1000枚は完売し、全英インディーチャートで最高3位を記録した。
1987年8月にベーシストのマニ(本名ゲイリー・マンフィールド)が加入し、よく知られた顔ぶれがそろう。翌1988年10月にはニュー・オーダーのピーター・フックによるプロデュースの下でシングル『エレファント・ストーン』をリリース。前後してシルヴァートーンとレコード契約を結び、アルバムの制作に着手する。
ファーストアルバムとその成功 [編集]
1989年の初頭にかけてローゼズはジョン・レッキーをプロデューサーに迎えレコーディングを行う。1989年2月にはアルバムに先駆けてシングル『メイド・オブ・ストーン』をリリース。当初の反響は小さかったが、3月11日にNME誌のシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれる。5月には満を持して1stアルバム『ストーン・ローゼズ』を発表。全英アルバムチャート初登場47位を記録し、最高32位まで上昇。同年7月、アルバムからシングル『シー・バングス・ザ・ドラムス』がカットされ全英インディーチャート1位を記録する頃にはプレスも彼らの存在を無視できなくなり、ストーン・ローゼズの名は急速に英国全土へ名が広まっていった。特にBBCの番組に出演した際、演奏途中で停電が起きたことに怒ったイアンが司会に向かって繰り返し「アマチュア!」と罵ったという事件はよくも悪くもバンドの知名度上昇に一役買った。秋に入ると英国外でも短いツアーを行い、10月の初来日公演では東京など4会場でライヴを行った。
11月、シングル『フールズ・ゴールド/ホワット・ザ・ワールド・イズ・ウェイティング・フォー』をリリース。全英シングルチャート最高8位を記録し、初のチャートトップ10入りを果たす。年末の特集記事では多くの音楽雑誌がローゼズをベスト・ニューカマーに選出。NME誌だけでもバンド・オブ・ザ・イヤー、ベスト・ニュー・バンド、シングル・オブ・ザ・イヤー(『フールズ・ゴールド』)、アルバム・オブ・ザ・イヤー(『ストーン・ローゼズ』)に選ばれた[3]。
1990年1月、元所属レーベルのFM Revolverがバンドの意に反してシングル『サリー・シナモン』を再リリースしてミュージック・ビデオを制作したことに抗議。オフィスに乱入したローゼズとそのマネージャーは辺りに青と白のペンキをぶちまけた。翌日メンバーは逮捕され、3月に器物損壊罪で有罪判決を受けた。5月27日にはスパイク・アイランドにて後に伝説となる野外ライヴを行う[4]。約2万7千人の観客を動員したこのライヴは「バギー世代のウッドストック」と称され、ローゼズのキャリアのピークとなった[5]。6月、シングル『ワン・ラヴ』をリリースし、最高4位を記録した。
同じ頃、所属レーベルのシルヴァートーンにおける待遇に不満を持ったバンドは移籍を希望するが、レーベル側は契約を盾にこれを拒否。問題は法廷闘争に発展するが、1991年5月に契約の解除が認められ、ローゼズは新たにゲフィンと契約した。


セカンドアルバムから解散へ

泥沼化していた裁判に加え、イアンとジョンが父親になり、バンドに近しい人物が相次いで亡くなるなど周辺環境に大きな変化が生じたこともあり、ローゼズは長きに渡る沈黙に入る。1stアルバムからは5年半、最後のライヴからは4年半が経過し、英国の音楽シーンにおけるブームもマッドチェスターからブリットポップへと移り変わっていた。そんな中で1994年12月に2ndアルバム『セカンド・カミング』が発表される。ジョン主導で制作され、レッド・ツェッペリンからの影響が色濃くうかがわれる本作は全英4位、全米チャート47位を記録し、イギリスではプラチナムに認定された。また、アルバム発売にあたり、ホームレス救済雑誌『ビッグイシュー』に独占インタヴューが掲載された。シングル『ラヴ・スプレッズ』も2位を記録し一定のセールスを上げる一方で、音楽性が急激に変わった本作への評価は芳しくなく一部のメディアからは酷評された。
翌1995年の3月にレニが突然バンドを脱退する。脱退理由の正式な説明はなされないまま、後任にロビー・マディックスが加入。4月にはノルウェーのオスロでのライヴを皮切りにヨーロッパとアメリカを回るツアーが開始された。しかし、その途中の6月にジョンがサンフランシスコでマウンテンバイクを運転中に鎖骨を骨折。直後に予定されていた日本ツアーなどが延期になり、グラストンベリー・フェスティバルへの出演がキャンセルされた。12月には1989年以来となる全英ツアーが行われ、チケットは即完売した。
1996年4月1日、ジョンが脱退。彼が残した声明で、バンドを去ることは「過去数年間にしだいに生じていった人間関係と音楽性の溝から避けられない結果だった」[6]と説明されている。後任にはエイジアやシンプリー・レッドでセッション・ギタリストを務めたアジズ・イブラヒムが迎えられ、夏に予定される複数のロック・フェスティバルに向けて準備が始められた。
8月25日には大トリとしてレディング・フェスティバルに出演[7]。しかし、終始音を外したイアンのボーカルや女性バックコーラス兼ダンサー陣を加えたステージは観客に受け入れられず、ブーイングや物が飛び交う事態になった。加えてプレスも一斉にローゼズのパフォーマンスを批判した[8]。これを受け、イアンとマニは10月に解散を発表、ストーン・ローゼズの歴史に終止符を打った。


解散後の動向

ヴォーカルのイアン・ブラウンはソロ活動を開始し、1998年にソロアルバム『アンフィニッシュド・モンキー・ビジネス』でデビュー。2011年までに6枚のオリジナル・アルバムと1枚のベスト・アルバムをリリースした。ギタリストのジョン・スクワイアはザ・シーホーセズを結成。1997年のデビューアルバムは一定の成功を収めるもメンバーとの音楽性の相違により1999年に解散。2002年にソロデビューし2枚のアルバムをリリースするが、2000年代半ばからは画家としての活動が中心になっていた。
マニは1996年に元々親交があったプライマル・スクリームにベーシストとして加入。『バニシング・ポイント』以降のアルバムでプレイした。またDJとしても活動し何度か来日もしている[9]。ドラムスのレニは自らがフロントマンになり「The Rub」を結成。ヴォーカルとリードギターを務めたが、作品を発表することなく解散した。
時折り再結成の噂が浮上したが、元メンバーはそのたびにこれを否定。イアン・ブラウンは2004年のライヴでストーン・ローゼズの楽曲を披露したが、再結成の可能性は明確に否定した[10]。2005年には巨額のオファーも蹴っている[11]。また、ジョン・スクワイアも2009年にアート作品によって再結成の意志がないことを再度表明した[12]。その一方で、マニは2008年末のインタビューで再結成への関心をみせていた[13]。また、レニも2005年にマニに誘われてイアン・ブラウンのライヴを観に行った際に、四人がまた一緒に活動することは「絶対にないとはいえない話だけど、それは今年ではない」と述べていた[14]。


再結成

2011年春、マニの母親の葬儀の際にイアン・ブラウンとジョン・スクワイアが15年ぶりに会話を交わす[15]。これまで絶縁状態だった二人が再会したことで一気に再結成の機運が高まった。
2011年10月18日、イアン、ジョン、レニ、マニが記者会見を開き、再結成を発表[16]。2012年6月29、30日にマンチェスターで再結成ライヴを行うことが決定し、その後の世界ツアーや新しいアルバムの発表も計画されていることが伝えられた[17]。11月8日にはフジロック・フェスティバル2012への出演が発表された[18]。


出典:wiki



メンバー

主要ラインナップ (1987年-1995年)

イアン・ブラウン Ian George Brown / ヴォーカル (1963年2月20日生まれ)
結成時から解散まで在籍した唯一のメンバー。
ニックネームは「マンチェスターのボス猿」(Manchester King Monkey)

ジョン・スクワイア Jonathan Thomas Squire / ギター (1962年11月24日生まれ)
結成時からのメンバー。イアンとは幼少の頃、公園の砂場で出会って以来の幼馴染。
アルバムやシングルのジャケットに描かれたジャクソン・ポロック風のアートワークはジョンによるもの。
1996年4月に「このままではいつまでたっても、カーテンの揺らめきに言いようのない不安を覚えるのと同じだ」と言い残し脱退。

マニ Gary Michael Mounfield / ベース (1962年11月16日生まれ)
オーディションを経て1987年8月にローゼズに加入し、解散までベースを担当した。
加入以前からイアンやジョンとは知り合いであった。

レニ Alan John Wren / ドラム、バッキング・ボーカル (1964年4月10日生まれ)
1984年5月に加入。1995年2月、セカンド・カミング・ツアーの前に脱退。
卓越したドラムの技術のみならず、コーラス・ワークでもバンドに貢献した。


主要ラインナップ以前


アンディ・カズンズ Andy Couzens / リズム・ギター (1983年から1986年5月まで在籍)
ピート・ガーナー Pete Garner / ベース (1983年から1987年8月まで在籍)
サイモン・ウォルステンクロフト Simon Wolstencroft / ドラム (1983年から1984年途中まで在籍)
初代ドラマー。ザ・スミスの前身バンドを経て加入し、ローゼズ脱退後はザ・フォールに加入。
ロブ・ハンプソン Rob Hampson / ベース (1987年)
在籍期間は1週間と非常に短かった。


主要ラインナップ以後

ロビー・マディックス Robbie J. Maddix / ドラム
脱退したレニの後を引き継いだドラマー。リミキサー/プロデューサーでもあり、シングル『ベギング・ユー』収録の「Chic Mix」は彼の仕事。ヴォーカル以外の全楽器がローゼズのメンバーにより演奏し直されている。
アジズ・イブラヒム Aziz Ibrahim / ギター
脱退したジョンの後を引き継いだギタリスト。隠し味としてアジア風のメロディを奏でる。シンプリー・レッド、エイジア、ポール・ウェラー、ノエル・ギャラガー、電気グルーヴ等との仕事で知られる。
後にイアン・ブラウンのソロキャリアにおけるレコーディングおよびツアーにて不可欠なメンバーとなる。
ナイジェル・イッピンソン Nigel Ippinson / キーボード
セカンド・カミング・ツアーからローゼズ最後のステージとなった1996年のレディング・フェスティバルまでキーボードを担当。
チャリティアルバム“HELP”収録された『ラヴ・スプレッズ』再録バージョンで彼の演奏が聴ける。


その他関係者

ジョン・レッキー John Leckie
1stアルバムのプロデューサー。2ndアルバムでも一部の曲を担当した。
クレッサ Cressa
ダンサー兼ギターエフェクターの操作担当[19]。一度見たら忘れられないタコの様な奇妙な動きをステージ上にて行う。1stアルバムの頃にライヴ要員として活躍。


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レディオヘッド(Radiohead)


レディオヘッド(Radiohead)は、イギリスのロックバンド。
1985年にオックスフォードで前身バンドを結成、1992年にメジャーデビュー。デビュー以降外部ミュージシャンの起用は多いものの、同じパーマネント・メンバーで活動している。2011年現在までに8枚のオリジナルアルバムを発表し、メンバーの単独活動も多い。本人たちのルーツであるポスト・パンクやオルタナティヴ・ロックの大枠にポストロック・電子音楽・ジャズ・クラシック・現代音楽などを混交した多彩な音楽性や、アルバムごとの急進的な実験性・変化が特徴。


来歴

メンバーが通っていたアビンドン・スクール

オックスフォード郊外にある男子全寮制パブリックスクールのアビンドン・スクールでメンバー5人は出会う。それぞれ別のバンドで活動したのち、1985年に「On A Friday」というバンドを結成。
1991年にEMI傘下のパーロフォンとメジャー契約し、バンド名をレディオヘッドに変更する。1992年にEP『Drill』でメジャーデビュー。翌年、1stアルバム『Pablo Honey』(1993年)からのシングル『Creep』が若者から熱烈な支持を受け、世界的なヒットとなる。この当時はUSオルタナティヴ・ロック、UKシューゲイザーなどの影響が頻繁に語られるような、トリプルギターにベース、ドラムという比較的オーソドックスなロックバンドであった。
ギターロックをより押し進めつつもアコースティックソングやサイケデリック・ロックからの影響を昇華した2ndアルバム『The Bends』(1995年)により、人気を不動のものとする。この作品からプロデューサーのナイジェル・ゴッドリッチと組むようになる。
この頃から次第にロックミュージック以外の音楽と接近していき、メンバー各自が様々な楽器を使い分けるようになる。1996年明けには映画音楽・サイケデリック・トリップ・ホップなどからの影響をシングルのB面や限定シングルカット「Lucky」などに表出し始め、1997年にはそれらの実験的な試みの結晶ともいえる3rdアルバム『OK Computer』(1997年)を発表。このアルバムは全世界で大きな評価を獲得し、1990年代のポップ・ミュージックを代表する金字塔としばしば評される出世作となる。
アルバムの世界的な成功により名声を得たメンバーだったが、評価を得たそれらのサウンドを捨て去り、当時ポップミュージックの分野ではほぼ手つかずのジャンルであったエレクトロニカ・現代音楽などに大きく傾倒。長いスタジオ作業の果てに「商業的自殺」[9]とも言われた4thアルバム『Kid A』(2000年)を発表し、大方の予想を裏切り再度成功を収める。実験的な電子音楽とバンド・サウンドを融合させ、前作『OK Computer』からの劇的な変化を遂げた作品となった。
翌年には『Kid A』と同時期に制作された5thアルバム『Amnesiac』(2001年)を発表。1920年代のスウィング・ジャズを取り入れるなど、ジャンルに捕われない音楽性をより明確にした。同年に初の公式ライブアルバム『I Might Be Wrong - Live Recordings』を発表した。
6thアルバム『Hail to the Thief』(2003年)では、これまでの実験性を包括したうえで改めてバンドサウンドに立ち返った。このアルバムを最後にEMIとの契約を終了。同年、ジョニーが初のソロ作品としてテレビ・ドキュメンタリー『Bodysong』のサウンドトラックを発表。2006年にトムが初のソロ・アルバム『The Eraser』を発表。
2005年から新作に向けた活動が再開され、2006年には欧米でのツアーも行われた。そして2007年10月1日に突然、公式ブログにて7thアルバム『In Rainbows』を発表。期間限定の専用サイトを通じ、MP3形式で先行ダウンロード販売された(この際、購入時に客自らに値段を決めさせる方式を採り、話題になった)。これと同時に豪華版Discboxも40ポンド定額でリリースされ、2007年12月3日より郵送が始められた(ダウンロード版と同内容のDisc1にDisc2を加えた2枚組CD、同内容のアナログ盤2枚、ブックレット、化粧箱で構成される)。
その後、バンドはTBDレコード(北アメリカのみ)、ホステス・エンタテインメント(日本のみ)、XLレコーディングス(それ以外の全世界)と契約し、通常のCDフォーマットでのリリースも決定。内容はダウンロード版、豪華版Disc1と同様になっている。
2008年、初のベストアルバム「Radiohead: The Best Of」と同タイトルのベストDVDをリリース。バンド自身は曲順やアートワークなどの制作全般に関わっておらず、EMIが残されたアルバム契約を履行する形になった。
2009年より、トムがレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、ナイジェル・ゴッドリッチらと共に新バンド"Atoms for peace"(ソロ・アルバムの曲名が由来)を結成。セットリストはソロアルバムの曲を中心に、他バンドのカバーや新曲をちりばめたようなもので、各所でライブを精力的に行っている。
2010年よりフィルがソロアルバム『Familial』を発表。また、フジロックフェスティバルにAtoms for peaceが出演した。
2011年2月14日、突如公式サイトにて8thアルバム『The King Of Limbs』の完成を発表。専用サイトにて、アルバムダウンロード(MP3又WAV)と豪華版ニュースペーパー・アルバムの予約受付を開始した。
2011年7月4日ザ・キング・オブ・リムスのリミックスシリーズの発売が決定。完全生産限定12インチ・アナログシングル(輸入盤のみ)と、デジタル・シングルでの発売となる。リトル・バイ・リトルとロータス・フラワーのリミックスを収録。


作曲スタイルと影響

レディオヘッドのメンバーは、ジョイ・ディヴィジョンやマガジン、ザ・スミス、トーキング・ヘッズ、ザ・フォール、ジャパン、U2といったポストパンクや、ピクシーズやR.E.M.やソニック・ユースといったオルタナティヴ・ロックに早くから影響を受けてきた。また、トムは小学生の頃にはクイーンなどを好み、エルヴィス・コステロなども聞いていた。[10][11][12]1990年代半ばにはマッシヴ・アタックやDJシャドウなどのエレクトロヒップホップからの影響をうかがわせ、それらは『OK コンピューター』に顕著である。[13]他に『OK コンピューター』にはマイルス・デイヴィス、エンニオ・モリコーネなどや、ビートルズやビーチ・ボーイズ、ピンク・フロイドなどからの参照が見受けれ、メンバーもそれを公言している。[10][14]
『キッド A』で、メンバーはグリッジやアンビエントなどのエレクトロニカの手法に関心を見せ、ワープ・レコーズのオウテカやエイフェックス・ツインといったアーティストの音楽性に接近していった。またそれ以降、現代ジャズのアリス・コルトレーンやマイルス・ディヴィス、チャールズ・ミンガス、アート・ブレイキーなども好んで参照し、ノイ!やカン、クラフトワークなどのクラウト・ロックの影響も顕著である。特にジョニーはいわゆる現代音楽や、オリヴィエ・メシアン、クシシュトフ・ペンデレツキ などの独特の方法論を持った音楽家からの影響も大きい。[15]
レディオヘッドの楽曲は、基本的に作詞/作曲のクレジットがメンバー全員(Radiohead)となっている。これは、曲の大枠やデモの多くを作るのはトムだが、そこからさらに議論を重ねてそこに肉付けしたり、逆に削ったりすることで楽曲の元を作っているからである。録音についてもパート別に順ぐり録音したりするのではなく、メンバー全員とプロデューサーでアレンジを議論し、個々がパートにとらわれずに音楽を作っている。パートごとの演奏者もまちまちで、あまり問題とされない。ストリングスやブラスバンド主体の曲などでは、楽隊を呼んで録音するため、そもそもメンバーが譜面やアレンジを指示するだけで演奏しないこともあり得る。歌詞については、基本的にほぼ全てがトムによって作詞・推敲される。


アートワーク

グラフィック・アーティストのスタンリー・ドンウッド (Stanley Donwood) は、『The Bends』以降、レディオヘッドの全作品のアートワークを手がけている。彼はトム・ヨークの大学時代からの友人であり、トムの社会活動にも一緒に参加している。
基本的にアートワークはアルバムごとに一定のテーマが決められている。シングルのジャケットやツアーでのグッズなど、次のアルバムをリリースするまではそのテーマに沿ったものが作成される。
Slowly Downward 公式サイト
トム・ヨークもDr.Tchock名義でアートワークに参加している。

出典:wiki


メンバー

トム・ヨーク (Thomas Edward Yorke, 1968年10月7日 - )
メインボーカル / ギター / エレクトリックベース[1] / ピアノ / シンセサイザー / タンバリン / ドラム


ジョニー・グリーンウッド (Jonathan Richard Gordon Greenwood, 1971年11月5日 - )
ギター / ピアノ / シンセサイザー / オンド・マルトノ / ストリングス / グロッケンシュピール・シロフォン / ラップトップコンピューター / トランジスタラジオ / カオスパッド


エド・オブライエン (Edward John O'Brien, 1968年4月15日 - )
ギター / バックボーカル・コーラス / ギターエフェクト・サンプリング/ ドラム/ カバサ/ パーカッション


コリン・グリーンウッド (Colin Charles Greenwood, 1969年6月26日 - )
エレクトリックベース / ウッドベース / シンセサイザー /キーボード /サンプリング / パーカッション


フィル・セルウェイ (Philip James Selway, 1967年5月23日 - )
ドラム / バックボーカル / パーカッション / リズムマシーン
プロデューサーのナイジェル・ゴッドリッチと、アートワークのスタンリー・ドンウッドは『The Bends』以降バンドの活動に欠かせない存在であり、しばしば第六・第七のメンバーと称される。

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